三浦按針の遺骨発見についてのウィリアム・アダムスクラブの見解

三浦按針の遺骨発見 (確認) についてのウィリアム・アダムス・クラブの見解

ニュース

ロビン・メイナード & リチャード・アーヴィング

5/28/2024

 ウィリアム・アダムス・クラブが平戸の行政府に対し崎方のウィリアム・アダムス公園を改修し、それに対する一般の理解と解釈を高める為に財政的な援助を申し出た時点では、この一件がどのような展開になるかを予想した者は殆どいなかった。しかし、我々は程なくこの公園 (これは公園というより庭と呼 んだ方が適当かもしれない) は、1954年から1964年の間にアダムスの生誕400年に合わせて造られたものであるということを知った。平戸の行政が土地を入手し、そこに三つの主たる記念塔を建立した。中央にある最も大きな塔には、日本語で「ここがアダムスの墓所である」と記されている。しかし、建立に当たって発掘調査がされたことはなかった。

 一方に於いて、この小さい土地は、長年アダムスとは縁のある土地で、永年に渡りここがアダムスの墓であると信じられて来た。興味深いことに市が購入するまで、この土地を少なくとも三世代にわたり所 有していたのは、三浦という家であった。アダムスの日本名である三浦按針と縁があることを示している。

 もう一つの興味深いものは、1931年の新聞の切り抜きである。それによると、地元の考古学者が公園の一隅を発掘調査し、遺骨を含む西洋風の墓を発見した。その遺骨は間違いなくアダムスのものであるということを示す材料はなかったが、その大きさから西洋人のものであると判断された。残念なことにこの発掘調査に関しては新聞の切り抜き以外には何の記録も残っていない。又、その正確 な位置を示すものもなかった。しかし、三浦家の人々の証言によれば、発掘調査は公園の北東の角にある無名の石塔の下かその周辺で行われた。平戸市行政はこの点を更に解明しようという意図の元に考古学の専門家に依頼し最新の技術を用いて埋葬地の確定と実際にその遺骨が誰のものであったかを特定しょうと計画した。ウィリアム・アダムス・クラブはアダムスの400年忌をふまえこの平戸市の計画に協力することを決め、協力体制が成立した。

 石塔の発掘は、2017年の7月に始められ同時に数メートル南にあり、公園の範囲より少しはずれたところにある一角の発掘も始められた。石塔のある場所は実際に1931年の発掘の場であることが確認された。遺骨は昭和時代に作られた骨壺に入れられ、その場にこぶし程の大きさの石を用いて埋め戻された。石が取り除かれると、数センチ程岩盤に埋め込まれた長方型 (2メートル×40センチ程) の墓穴の基礎の部分が現れた。棺の釘も出てきたが、これは西洋式の埋葬であったことを示す。当時の日本では遺体は顔を西に向けて座した形で釘を用いずに作られた木製の桶に入れて丸い穴に埋葬されるものであった。この墓は長方形で東西の向きで埋められていた。そしてその大きさは、長身の人物を寝かせた状態で埋葬するに十分な大きさであった。その墓の最深部は地下60センチ程であり、これは墓の状態としては普通無いことである。1931年の新聞記事によれば、この最深部は地下2メートルとなっているが、これは崎方の丘が戦前からの造成行為によっていかに変化したかということを物語っている。

 発掘された遺骨を掃除し、その性質を調べるための調査を行うために、それを乾燥させるのには6か月を要した。その間、ウィリアム・アダムス・クラブはその遺骨がアダムスのものであるか否かを確実に見極めるために「チェックリスト」を考え出した。申すまでもなく、それは一人の人物の遺骨でなければならないということが一つ。そしてその人物が男 性で死亡時の年齢が50代半ばであるということが一つ。遺骨は1620年の死亡時より 400年の間に劣化してきていたが、それが英国人としての生い立ちであり、スペインやポルトガル、更にオランダ人のような他のヨーロッパ人のように同じような方法で埋葬された人物ではないということが明らかにならなくてはならない。

 更に厳密な調査を要することは、例えばアダムスは落馬による首、肩の骨折をしたことがあると考えられるので、その痕跡の有無を確定することなどが挙げられる。遺骨全体の5%程度が残ったにすぎず、埋 葬地の土壌が強い酸性であるということにより、それが調査の材料として大変質の良くないものであり、骨折の痕跡の有無を調べるというような詳細な調査は不可能であった。顔面の再現というようなことも同様である。より好ましい発見として、2018年の終わりにミトコンドリアDNAが摘出され、東京大学の専門家たちにより炭素分析が行われた。その結果は以下のようなものである。

  • 遺骨は一人の年齢40歳~59歳の西洋人のものである。

  • 炭素分析によると、その死亡時期は 1590年と1620年の間である。

  • DNA鑑定によれば、その人物の出身は北ヨーロッパないし、西ヨーロッパである。

 この発見により、この遺骨がイベリア半島の出身であるとかオランダ人のような中部ヨーロッパ又はゲルマン系の人物のものであるという可能性を排除し、それがケルト系、スカンジナビア系の英国人のものであるということを示している。言い換えれば、この段階に至っては、少なくともこの遺骨がアダムスのものではないと断言することはできない、というところまでに至った。実際のところ、この遺骨はアダムスのものであるという可能性は、非常に高いように思える。ただ、炭素分析により示された死亡時期には少なくとも8人の英国人が平戸で死亡しておりいまだ発見されていない崎方にあったといわれるそれら英国人のいわゆるキリシタン墓、英国人墓地とどのような位置関係にあったかということが疑問として残っている。

 もし、この地区に他の洋風墓地が存在したことが確実となれば、今回の遺骨分析の結果に大きな疑問点 を残すことになる。そのような疑問は第二の墓穴が2017年の発掘の際に見つかったということにより、より強まる可能性があった。しかし、それは和式の埋葬法による墓であるということがわかり、やはりウィリアム・アダムス・クラブの出費により行われた調査の結果によると、それは13世紀に死亡した若年または中年の日本人の男性の墓であることが判明した。しかし、この第二の地点の発掘は平戸の行政府をして2018年の7月よりその地点より崎方の丘の頂上に向けて墓地の存在を探るためのさらなる発掘作業を行わしめるきっかけとなった。

 その結果、四つの墓穴が見つかり、そのうちの三つの穴にそれぞれ二つの墓があり、残りの一つは単独の墓であった。これは全部で七つの今まで知られてなかった墓が見つかったということである。上記の墓は全て日本式の墓で、丸い桶をもって埋葬され、陶器や塗り物の副葬品が埋められていた。これらの品 は、全て中国産のもので16世紀後半のものとされた。多数の墓がこのように狭い地域で見つかったということは、墓地の存在を匂わすものであったが、それが未だ見つかっていない外国人墓地ではないということは明らかである。新たに発掘された遺骨の調査によれば、それらは日本人か中国人のものであり、その副葬品から判断すれば、この墓地は16世紀の後半に平戸で死んだ中国人商人のための中国人用墓地であったということができる。もしそれが正しければ、この墓地は長崎にある中国人墓地よりも以前より存在したということになり、歴史的にも重要な発見といえるであろう。可能性として考えられるのは、この墓地は満杯になり、それ以降の中国人の埋葬は長崎で行われるようになったということが考えられる。調査は続行するがこれまでの発掘調査の結果は、アダムスの墓というものを考えるに際し重要な意味を持つであろう。

 横須賀市逸見にアダムスの妻とされるオユキという人物の話として伝わることによると、アダムスは海を見渡せる丘の上に埋葬されることを望んでいた。この望みを叶えるために、アダムスは、もし自分が逸見で死んだ場合のために自分の領地の外れにある一ヶ所を埋葬 地として定めていた。日本側の記録によれば、オユキはアダムスの死後、数年の後、その一角に追善のための碑を建てた。この碑は現在も存在しているが、多くの人々がそれをアダムスの墓地と誤って理解している。1613 年より、より多くの時間を平戸で過ごすようになってから、アダムスは自身の平戸における埋葬の場所について 同じようなことを言い残していたということは想像に難くない。アダムスはその旗本という社会的な地 位により、このようなことをするのが可能であり、平戸藩主松浦氏もそれを許可するに躊躇しなかったように思われる。そこでアダムスは贈与か購入という手段をもって、海の見える崎方の丘の一角を手に入れたと考えられる。その一角というのは、他の外国人の墓が設けられていた場所から程遠くないところであり、実際に崎方の丘は当時外国人用の埋葬地として確保されていたようにもみえるのである。埋葬地を決めるにあたり、アダムスは自分自身でなるべく頂上に近いところですでに存在していた中国人墓地にはあまり近すぎない場所を選んだのではないかと考えられる。それら既存の墓は、大きな一つ の石か積み上げられた石の囲いによって位置がはっきり決められ、アダムスのいた当時ははっきりと目視することができた。アダムスが崎方の地に墓を建てるための土地を入手したということが中国人たち をしてそれ以降の中国人の墓は、長崎に建てるという決定をさせたのではないかという考えも成り立つ。この地にあったと思われる日本人の墓地はずっと以前に消滅しており、名も記していない空洞としてしか存在していない。

 2019年に平戸の行政は、アダムス記念公園の西方に向かい、2017年度発掘と同じ個所にある無名の石塔を調査し、英国人墓地の所在地を特定する作業を継続することとした。ウィリアム・アダムス・クラブの提供した資金がこの作業にも寄与することとなった。この度の発掘作業は2019年の7月より始められる予定であったが、悪天候その他の理由で調査開始は11月まで日延べになったが、アダムスの墓の近くにさらに三つの墓が見つかった。これらは全て日本人の墓で、座棺による埋葬であった。それらは、副葬品から見て、江戸初期のものであると暫定的に判断された。これらの副葬品の中には、陶器の皿、また興味深い品としては、ロザリオについていたと思われるビーズがあった。

 これらの副葬品は、中国人墓地で見つかった副葬品とは全く共通点がなく、両者になんらかの関連性があったということの理由は何もなかった。また、見つかった人骨のうちの一体は、女性のものと判定されたが、これは三度に渡る発掘作業で発見された遺骨の中で唯一のものであった。調査は続行しているので、より詳しい結果が出るのは先の事となる。

 これらの埋葬地の中には、2017年の発掘により見つかった若年の被葬者の墓のようにもっと以前のものである可能性もある。しかし、被葬者の中にはアダムスを知っていて、この地に埋葬されることの意味を心得ていた者もあったという可能性もある。アダムスは平戸に居住していたその間、男子と思われる私生児をもうけ、その子とその母親はアダムスの死後も生存していたということも忘れてはならない。アダムス公園内にはアダムスの埋葬地以外には墓は無く、ここが未だ特定されていない英国人墓地であったという可能性はない。

 大英博物館の東インド会社関係の専門家によると、1621 年以前に平戸で死亡した英国人に関する調査が行われたことがあった。それによると、アダムス以外は全て英国商館に物資を届けるために、数週間か 数カ月平戸に滞在していた水夫たちであった。一人を除き、他の全ての者は、船員仲間とともに、または「通常の埋葬地」またはキリシタン墓地または水葬にされたというように明らかに崎方の丘ではないと ころに葬られた。これらの水夫がどこに埋葬されたかということは引き続き関心を持たれることである が、現時点においては、公園内に単独で埋葬されている人物の特定ということに関しては直接関連のないことである。水夫以外の一人は、名をジョン・ベイリーといい、「ホーサンディア号」という船に乗り組み、1616年に死亡したと記録されている。(一般的に、ハクリュート?が着目したように) 水夫の数は多数に上ったが、白髪が交じるほどの者はごくわずかであった。これは、40歳を超えた水夫の占める割合は非常に低かったということを示しており、このことは1600年代に船に乗り組んでいた者についての最近の研究により確認されている。我々が考えるに、ジョン・ベイリーは、はっきりした記録はないが「通常の埋葬地」に葬られ崎方に埋葬されたという可能性は極めて少ない。

 結論的に申して、方の丘の頂上近くにある洋風な墓は一つしかなく、それはアダムス公園内の北東の隅にある無名の石塔であるといえる。その東の方には、中国人又は可能性として日本人の墓、アダムスがいた時代よりも前から存在していた。その墓の裏の方1メートルか2メートル離れたところには、三人の人物が日本式の方法で埋葬された場所がある。

 これらの人物はアダムスを知っていた者たちかもしれない。また、アダムスが知り、信頼していた者たちかもしれない。三人の内の一人は女性であった。近代になってより、また、それ以前からかもしれないが、この地はずっと三浦按針すなわちウィリアム・アダムスと関連付けられてきた。2017年に発掘された選骨は、性別、出生地、死亡時の年齢、死亡した年代等の点において、アダムスの特徴とされている事柄と完全に一致している。この遺骨が北西ヨーロッパ出身の別の人物のものであるという憶測は平戸で死亡した英国やオランダから来た商人や水夫はそれぞれの国の死者を埋葬した小規模な墓所にまとめて葬られていたということにより、否定される。アダムスは自身で選んだ地に葬られたいという願いを表明しており、それは丘の頂上近くで海を見渡せる場所ということであった。このようなことはアダムスが持っていた力と地位があってできたことであった。

 アダムス没後400年という年にあたり、ウィリアム・アダムス・クラブは発掘調査の結果についてその会員またより広い範囲にある人々に対して、その公式見解を発表する義務があると考える。調査研究は継続して行われているが、これより先の研究結果は我々のすでに出している結論を証明するという結果となると考える。我々の最終的判断とは、ウィリアム・アダムスの埋葬の地は、日本国長崎県平戸市の方の丘の頂上付近であると確定した、ということである。

追記

                              ロビン・メイナード

                              リチャード・アーヴィング

                                                              2020年5月

 前記の見解を発表した後に、按針墓地について色々細部に渡って新たな調査結果が明らかになった。それらは我々の見解の正当性を証明するものであるが、その中の一点は、発掘された遺骨がアダムスのものであるかどうかということについての疑問を完全に拭い去るものであった。以下はそれら新しい調査結果のまとめである。

 2018年と2019 年度の方の丘の発掘調査の結果報告書は、平戸市役所に保管され、研究資料として見ることができる。それによれば、アダムスの墓地は、その他のどの西洋風埋葬地とも関連性がないことを示しており、その東方のより丘の頂上に近いところで、見つかった墓は1500年の終わり頃、平戸で死んだ中国人商人 (男性) のものであるということが明らかである。2019年にアダムスの墓の下方で見つかった3基の座棺による埋葬地は、1600年初期又は中期ごろのものであり、アダムスの墓の東方で見つかった他の座棺による墓とは、はっきりとした関連性は見いだせない。2018年、19年に発掘された遺骨は、カーボン試験を含むさらなる調査が必要となるかもしれない。そのような調査はアダムスの墓の周辺にある墓の埋葬年代を明らかにするために有益であろう。

 2020年の12月に「ネイチャー誌」 は、「英国人として最初のサムライ、ウィリアム・アダムスの生物 人類学的研究」という記事を載せた。その記事の筆者の中には、2017年から2019年の発掘調査の主導をした考古学者、人類学者、松下孝幸博士がおり、日本におけるDNA研究の第一人者である水野文月 (みずのふづき) 博士が中心となってその記事を著した。実際的にはこの発表が2017年の按針墓発掘調査の最終結論ということができる。

 「ネイチャー誌」に掲載される記事は、最も厳密で科学的な手段によって作成されたものでなくてはならず、その信憑性の評価は極めて厳しいものである。中間報告に含まれていた結果報告は、より厳密にな り最終報告では遺骨は按針のような西洋人のものであることが極めて高い精度で考えられるとしてある。Radio Carbon DatingとStable Isotropicの測定結果はその遺骨の主は、江戸時代の日本人と同じ食事をしていた、ということを示している。ということは、この人物が長年に渡って日本に生まれた者またはそうでない者に関わらず、当時日本において生活していた者と同じく典型的な日本風の食生活をしていたことを示している 。

 「長い年月」という言い方は、少なくとも10年以上の期間を示していると見られ、比較的短い期間を平 戸で過ごすのを常としていた外国の船員を対象から外すための判断材料として十分である。按針墓と言われてきたものが、本当にそうなのか、誰か他の者の墓ではないかというこれまでの論議は全く意味のないものとなる。墓の主は少なくとも10年は日本に在住していたのであるから! 我々が発表した「見解」は、クローヴ号で 1613 年に日本に来てアダムスの死のニカ月前に平戸で死んだ英国人商人、ウィリア ム・ニールソンのことに言及することを怠っていた。しかし、ニールソンは日本で10年の年月を過ごしたことはなく、さらに20代後半か30代前半に死亡したとされているから、問題の墓の主かどうかということは問題にならない。

三浦按針の遺骨発見についてのウィリアム・アダムスクラブの見解