ウィリアム・アダムスの歴史
Translated by Akira Matsura Esq.
三浦接針の遺骨発見 (確認)についてのウィリアム・アダムス・クラブの見 解
ウィリアム・アダムス・クラブが平戶の行政府に対し方 のウィリアム・アダムス公園を 改修し、それ に対する 一般の理解と解釈を高める為に財政的な援助を申し出た時点で は、この 一件がどのような展開 になるかを予想した者は殆どいなかった。しかし、 我々は程なくこの公園(これは公園というより庭と呼 んだ方が適当かもしれない) は、 1954 年から 1964 年の間にアダムスの生誕 400 年に合わせて造られた ものであるとい うことを知った。
平戶の行政が土地を入手し、そこに 三つの主たる記念塔を建立した。中央にある最も 大きな塔には 、日本 語で「ここがアダムスの墓所である」と記されている。しかし、 建立に当た って発掘調査がされたことは な か った。
一方に於いて、この小さい土地は、⻑年アダムスとは縁のある土地で、永年に渡りここ がアダムスの墓 であると信じられて来た。興味深いことに市が購入するまで、この土 地を少なくとも三世代にわたり所 有していたのは、 三浦という家であった。アダムス の日本名である三浦按針と縁があることを示している。
もう一つの興味深いものは、19 31 年の新聞の切り抜きである。それによると、地元の 考古学者が公園 の 一瞬を発掘調査し、遺骨を含む⻄洋風の墓を発見した。その道管は 間違いなくアダムスのものであるということを示す材料はなかったが、その大きさから ⻄洋人のものであると判断された。
残念なことにこの発掘調査に関しては新聞の切り抜き以外には何の記録も残っていな い。又、その正確 な位置を示すものもなかった。しかし、三浦家の人々の証言によれ ば、発掘調査は公園の北東の角にある 無名の石塔の下かその周辺で行われた。平戶市 行政はこの点を更に解明しようという意図の元に考古学 の専門家に依頼 し最新の技術 を用いて埋葬地の確定 と実際に その遺骨が誰 のものであったかを特定 しようと計画し た。ウィリアム・アダムス・クラブはアダムスの 400 年息をふまえこの平戶市の計画に 協力 することを決め、協力体制が成立した。
石塔の発掘は、2017 年の 7 月に始められ同時に数メートル南にあり、公園の範囲より 少しはずれたところにある一角の発掘も始められた。石塔のある場所は実 際に1931年の発掘の場であることが確認された。遺骨は昭和時代に作られた
骨壷に入れられ 、その場にこぶし程の大きさの石を用いて埋め戻された。 石が取り除 かれると、数センチ程岩盤に埋め込まれた⻑方型(2 メートル X40 センチ程)の墓穴の基 礎の部分が現れた。棺の釘も出てきたが、これは⻄洋式の埋葬であったことを示す。当 時の日本では遺体は 顔を⻄に向けて座した形で釘を用いずに作られた木製の桶に入れ て丸い穴に埋葬されるものであった。 この墓は⻑方形で東⻄の向きで埋められてい た。そしてその大きさは、⻑身の人物を寝かせた状態で埋 葬するに十分な大きさであ った。その墓の最深部は地下 60 センチ程であり、これは墓の状態としては普 通無いこ とである。1931 年の新聞記事によれば、この最深部は地下 2 メートルとなっている が、これは崎方の丘が戦前からの造成行為によっていかに変化したかということを物語 っている。
発掘された遺骨を掃除し、その性質を調べるための調査を行うために、それを乾燥させ るのには 6 か 月を要した。その間、ウィリアム・アダムス・クラブはその遺骨がアダム スのものであるか否かを確実に見極めるために「チェックリスト」を考え出した。
申すまでもなく、それは 一人の人物の遺骨でなければならないということが一つ。そ してその人物が男 性で死亡時の年齢が 50 代半ばであるということが一つ。遺骨は 1620 年の死亡時より 400 年の間に劣化してきていたが、それが英国人としての生い立 ちであり、スペインやポルトガル、更にオランダ人のよう な他のヨーロッパ人のよう に同じような方法で埋葬された人物ではないということが明らかにならなくてはならな い。
更に厳密な調査を要することは、例えばアダムスは落馬による首、肩の骨折をしたこと があると考えられるので、その痕跡の有無を確定することなどが挙げられる。遺骨全体 の 5%程度が残ったにすぎず、埋 葬地の土壌が強い酸性であるということにより、それ が調査の材料として大変質の良くないものであり、 骨折の痕跡の有無を調べるという ような詳細な調査は不可能であった。顔面の再現というようなことも 同様である。よ り好ましい発見として、2018 年の終わりにミトコンドリア DN A が摘出され、東京大 学 の専門家たちにより炭素分析が行われた。その結果は以下のようなものである。
・遺骨は一人の年齢40歳~59歳の⻄洋人のものである。 ・炭素分析によると、その死亡時期は 1590 年と 1620 年の間である。
・DNA鑑定によれば、その人物の出身は北ヨーロッパないし、⻄ヨーロ ッパである。
この発見により、この遺骨がイベリア半島の出身であるとかオランダ入のような中部ヨ ーロッパ又は グルマン系の人物のものであるという可能性を排除し、それがケルト 系、スカンジナビア系の英国人のものであるということを示している。 言い換えれ ば、この段階に至っては、少なくともこの遺骨がアダムスのものではないと断言
することはできない、というところまでに至った。
実際のところ、この遺骨はアダムスのものであるという可能性は 、非常に高いように 思える。
ただ、炭素分析により示された死亡時期には少なくとも 8 人の英国人が平戶で死亡して おりいまだ発見 されていない崎方にあったといわれるそれら英国人のいわゆるキリシ タン墓、英国人墓地とどのような位置関係にあったかということが疑問として残 って いる。
もし、この地区に他の洋風墓地が存在したことが確実となれば、今回の遺骨分析の結果 に大きな疑問点 を残すことになる。そのような疑問は第 二の墓穴が 2017 年の発掘の 際に見つかったということにより、 より強まる可能性があった。しかし、それは和式 の埋葬法による墓であるということがわかり、やはりウィリアム・アダムス・クラブの 出費により行われた調査の結果によると、それは 13 世紀に死亡した若年 または中年の 日本人の男性の墓であることが判明した。しかし、この第二の地点の発掘は平戶の行政 府をして 2018 年の 7 月よりその地点より崎方の丘の頂上に向けて墓地の存在を探るた めのさらなる発掘作業を行わしめるきっかけとなった。 その結果、四つの墓穴が見つ かり、そのうちの三つの穴にそれぞれ 二つの墓があり、残りの 一つは単独の墓であっ た。これは全部で七つの今まで知られてなか った墓が見つかったということである。 上記の墓は全て日本式の墓で、丸い桶をもって埋葬され、陶器や塗り物の副葬品が埋め られていた。これらの品 は、全て中国産のもので 16 世紀後半のものとされた。多数の 墓がこのように狭い地域で見つかったということは、墓地の存在を匂わすものであった が、それが未だ見つかっていない外国人墓地ではないとい
うことは明らかである。
新たに発掘された遺骨の調査によれば、それらは日本人か中国人のものであり、その副 葬品から判断す れば、この墓地は 16 世紀の後半に平戶で死んだ中国人商人のための中 国人用墓地であったということが できる。もしそれが正しければ、この墓地は⻑崎に ある中国人を地よりも以前より存在したということ になり、歴史的にも重要な発見と
いえるであろう。可能性として考えられるのは、この墓地は満杯にな り、それ以降の 中国人の埋葬は⻑崎で行われるようになったということが考えられる。調査は続行する がこれまでの発掘調査の結果は、アダムスの墓というものを考えるに際し重要な意味を 持つであろう。
横須賀市逸見にアダムスの妻とされるオユキという人物の話として伝わることによる と、 アダムスは海を見渡せる丘の上に埋葬されることを望んでいた 。この望みを叶え るために、
アダムスは、もし自分が逸見で死んだ場合のために自分の領地の外れにある一ヶ所を埋 葬 地として定めていた。
日本側の記録によれば、オユキはアダムスの死後、数年の後、その 一角に追善のため の隣を建てた。この碑は現在も存在しているが、多くの人々がそれをアダムスの墓地と 誤って理解している。1613 年より、 より多くの時間を平戶で過ごすようになってか ら、アダムスは自身の平戶における埋葬の場所について 同じようなことを言い残して いたということは想像に難くない。アダムスはその旗本という社会的な地位により、こ のようなことをするのが可能であり、平戶落主松浦氏もそれを許可するに躇 しなかっ たように思われる。 そこでアダムスは贈与か購入という手段をもって、海の見える崎 方の丘の一角を手に入れたと考えられる。その一角というのは、他の外国人の墓が設け られていた場所から程遠くないところであり、実際に崎 方の丘は当時外国人用の埋葬 地として確保されていたようにもみえるのである。 埋葬地を決めるにあたり、アダム スは自分自身でなるべく頂上に近いところですでに存在していた中国 人墓地にはあま り近すぎない場所を選んだのではないかと考えられる。それら既存の墓は、大きなーっ の石か積み上げられた石の囲いによって位置がはっきり決められ、アダムスのいた当時 ははっきりと目
視することができた。アダムスが崎方の地に墓を建てるための土地を入手したというこ とが中国人たち をしてそれ以降の中国人の墓は、⻑崎に建てるという決定をさせたの ではないかという考えも成り立つ。 この地にあったと思われる日本人の墓地はずっと 以前に消滅しており 、名も記していない空洞としてしか存在していない。
2019 年に平戶の行政は、アダムス記念公園の⻄方に向かい、2017 年度発掘と同じ個所 にある無名の石 塔を調査し、英国人墓地の所在地を特定する作業を継続することとし た。ウィリアム・アダムス・クラブ の提供した資金がこの作業にも寄与することとな
った。この度の発掘作業は 2019 年の 7 月より始められる予定であったが、悪天候その 他の理由で調査開始は
11 月まで日延べになったが、アダムスの墓の近くにさらに三つの墓が見つかった。こ れらは全て日本人 の墓で、座格による埋葬であった。それらは、副葬品から見て、江 戶初期のものであると暫定的に判断さ れた。これらの副葬品の中には、陶器の皿、ま た興味深い品としては、ロザリオについていたと思われるビーズがあった。
これらの副業品は、中国人墓地で見つかった副葬品とは全く共通点がなく、両者になん らかの関連性があったということの理由は何もなかった。また、見つかった人骨のうち の一体は、女性のものと判定され たが、これは 三度に渡る発掘作業で発見された遺骨 の中で唯 一のものであった。調査は続行しているので、より詳しい結果が出るのは先 の事となる。 これらの埋葬地の中には、2017 年の発掘により見つかった若年の夜業者 の墓のようにもっと以前のものである可能性もある。しかし、微葬者の中にはアダムス を知っていて、この地に埋葬されることの意味を 心得ていた者もあったという可能性 もある。アダムスは平戶に居住していたその間、男子と思われる私 生児をもうけ、そ の子とその母親はアダムスの死後も生存していたということも忘れてはならない。ア ダムス公園内にはアダムスの埋葬地以外には墓は無く、ここが未だ特定されていない英 国人墓地であっ たという可能性はない。
大英博物館の東インド会社関係の専門家によると、1621 年以前に平戶で死亡した英国 人に関する調査 が行われたことがあった。それによると、アダムス以外は全て英国商 館に物資を届けるために、数週間か数カ月平戶に滞在していた水夫たちであった。一人 を除き、他の全ての者は、始員仲間とともに、または 「通常の埋葬地」またはキリシ タン墓地または水葬にされたというように明らかに崎方の丘ではないところに葬られ た。これらの水夫がどこに埋葬されたかということは引き続き関心を持たれることであ る が、現時点においては、公園内に単独で埋葬されている人物の特定ということに関 しては直接関連のな いことである。水夫以外の 一人は、名をジョン・ベイリーとい い、「ホーサンディア号」という船に乗り 組み、1616 年に死亡したと記録されてい る。(一般的に、ハクリュート?が着目したように)水夫の数は 多数に上ったが、白髪が 交じるほどの者はごくわずかであった。これは、40 歳を超えた水夫の占める割 合は非 常に低かったということを示しており、このことは 1600 年代に船に乗り組んでいた者 についての 最近の研究により確認されている。我々が考えるに 、ジョン・ベイリー
は、はっきりした記録はないが「通常の埋葬地」に葬られ崎方に埋葬されたという可能 性は極めて少ない。
結論的に申して、崎方の丘の頂上近くにある洋風な墓は一つしかなく、それはアダムス 公園内の北東の 隅にある無名の石塔であるといえる。その東の方には、中国人又は可 能性として日本人の墓が、アダムスがいた時代よりも前から存在していた。その墓の裏 の方 1 メートルか 2 メートル離れたところには、 三 人の人物が日本式の方法で埋葬さ れた場所がある。
これらの人物はアダムスを知っていた者たちかもしれない。また、アダムスが知り、信 頼していた者たちかもしれない。三人の内の一人は女性であった。近代になってより、 また、それ以前からかもしれないが、この地はずっと 三浦抜針すなわちウィリアム・ アダムスと関連付けられてきた。2017 年に発掘された遺骨は、性別、出生地、死亡時 の年齢、死亡した年代等の点において、アダムスの特徴とされている事柄と 完全に 一 致している。この遺骨が北⻄ヨーロッパ出身の別の人物のものであるという憶測は平戶 で死と
した英国やオランダから来た商人や水夫はそれぞれの国の死者を埋葬した小規模な墓所 にまとめて葬られていたということにより、否定される。アダムスは自身で選んだ地に 葬られたいという願いを表明し ており、それは丘の頂上近くで海を見渡せる場所とい うことであ った。このようなことはアダムスが持っていた力と地位があってできたこ とであった。
アダムス没後 400 年という年にあたり、ウィリアム・アダムス・クラブは発掘調査の結 果についてそ の会員またより広い範囲にある人々に対して、その公式見解を発表する 義務があると考える。調査研究 は継続して行われているが、これより先の研究結果は 我々のすでに出している結論を証明するという結果となると考える。我々の最終的判断 とは、ウィリアム・アダムスの埋葬の地は、日本国⻑崎県平戶市の崎方の丘の頂上付近 であると確定した 、ということである。
ロ ビ ン ・ ジェームス ・ メ イ ナー ド リチャード・アーヴィング
追記 前記の見解を発表した後に、抜針墓地について色々細部に渡って新たな調査結果 が明らかになった。それらは我々の見解の正当性を証明するものであるが、その中の
一点は、発掘された遺骨がアダムスのも のであるかどうかということについての疑問 を完全に拭い去るものであ った。以下はそれら新しい調査 結果のまとめである。
2018 年と 2019 年度の崎方の丘の発掘調査の結果報告書は、平戶市役所に保管され、研 究資料として見ることができる。それによれば、アダムスの基地は、その他のどの⻄洋 風埋葬地とも関連性がないこと を示しており、その東方のより丘の頂上に近いところ で、見つかった墓は 1500 年の終わり頃、平戶で死んだ中国人商人 (男性)のものである ということが明らかである。2019 年にアダムスの墓の下方で見っ かった 3 基の座棺に よる埋勢地は、1600 年初期又は中期ごろのものであり、アダムスの墓の東方で見つ
かった他の座棺による墓とは、はっきりとした関連性は見いだせない。2018 年、19 年 に発掘された遺骨は、カーボン試験を含むさらなる調査が必要となるかもしれない。そ のような調査はアダムスの墓の周 辺にある墓の埋葬年代を明らかにするために有益で あろう。
2020 年の 12 月に「ネイチャ ー誌」は、「英国人として最初のサムライ、ウィリアム・ アダムスの生物 人類学的研究」という記事を載せた。その記事の筆者の中には、2017 年から 2019 年の発掘調査の主導 をした考古学者、人類学者、松下孝幸博士がおり、日 本における DN A 研究の第 一人者である水野文月 ( みずのふづき)博士が中心となってそ の記事を著した。実際的にはこの発表が 2017 年の抜針葼発堀調 香の最終結論というこ とができる。
「ネイチャー誌」に掲載される記事は、最も厳密で科学的な手段によって作成されたも のでなくてはならず、その信憑性の評価は極めて厳しいものである。中間報告に含まれ ていた結果報告は、より厳密になり最終報告では遺骨は抜針のような⻄洋人 のものであることが極めて高い精度で考えられるとしてある。
RadioCarbonDating と StableIsotropic の測定結果はその遺骨の主は、江戶時代の日本人 と同じ食事を していた、ということを示している。ということは、この人物が⻑年に 渡 って日本に生まれた者またはそ うでない者に関わらず、当時日本において生活して いた者と同じく典型的な日本風の食生活をしていたことを示している。
「⻑い年月」という言い方は、少なくとも 10 年以上の期間を示していると見られ、比 較的短い期間を平戶で過ごすのを常としていた外国の船員を対象から外すための判断材 料として十分である。抜針墓と言われてきたものが、本当にそうなのか、誰か他の者の 墓ではないかというこれまでの論議は全く意味の ないものとなる。墓の主は少なくと
も 10 年は日本に在住していたのであるから!我々が発表した「見解」 は、クローヴ号で 1613 年に日本に来てアダムスの死の 二ヵ月前に平戶で死んだ英国人商人、ウィリア ム・ ニールソンのことに言及することを怠っていた。しかし、ニールソンは日本で 10 年の年月を過ごし たことはなく、さらに 20 代後半か 30 代前半に死亡したとされてい るから、問題の墓の主かどうかということは問題にならない。
(訳) 松浦章