ウィリアム・アダムスの歴史

サムライへの出世

 アダムスとその船員たちは、50年近くもカトリックの布教活動が行われてきた豊後国に到着しました。イエズス会は強力な存在であり、日本にオランダやイギリスのプロテスタントが存在することが自分たちに有利に働くとは思えないことを十分承知していたので、予想外で季節外れのアダムスたちの船が海賊船であることを地元当局に全力を尽くして説得をしました。この時期日本の海域では海賊行為が横行しており、その罰則は死刑でした。

アダムスと他の乗組員にとって幸運だったのは、当局が適切な手続きに従って、イエズス会からの死刑の嘆願を聞き入れず、この事件を最も強力な大名である徳川家康に報告したことです。徳川家康は、このイギリス人を大阪に連れて来るよう命じ、直接尋問をしました。

アダムスが徳川家康に会った 18 世紀のオランダの描写。(出典:ウィキメディア)

後に将軍に就任する家康は、アダムスに感銘を受けたようで、その後数年間をかけてゆっくりと、そして確実に、さまざまな役割に就かせました。アダムスの数学、地理、ヨーロッパ内部の知識など生かされたのです。さらに、日本側の記述によると、このイギリス人は軍備に卓越した才能を持っており、徳川軍の砲術に協力したとあります。さらに家康は、水先案内人(按針)としてのアダムスに、英国式の外洋船の建造をまず試しに命じました。伊東で建造された2隻の小型船のうち一隻は、後に太平洋を横断してアカプルコに渡り、現在の東京の千葉沖で遭難したフィリピン総督を送還しました。

このような造船上の功績により、アダムスは家康から非常に目をかけられるようになり、ヨーロッパの問題が持ち上がると、彼の意見と助言が頻繁に求められたといいます。また、スペインやオランダの使節団を迎える際には、従来のイエズス会士に代わって通訳や相談役に任命されました。

無礼で傲慢なスペイン外交は、家康とその家臣たちをいらだたせ、ニュースペインやフィリピン(ニュースペインの属国であり、メキシコシティの支配下にあった)との交流や貿易を拡大する希望を打ち砕くことになり、アダムスの幕府での発言力はますます強くなりました。

ウィリアム・ダルトンによって1866年に描かれたウィリアム・アダムスがまだ将軍になっていなかった徳川家康と初めて会った様子。(出典:ウィキメディア)

アダムスの成功の鍵は、その語学力にありました。来日前からスペイン語、オランダ語、ポルトガル語に堪能であったとされ、移り住んだ国の言葉と語法をいち早く習得しました。また、日本での生活初期から家庭に恵まれていたのもその要因のひとつであったと思われます。1602年頃に彼は馬込お雪という武士の養女と結婚したと言われています。アダムスの義父は、日本橋で商売や事業に大きな影響力をもっていました。聡明な妻の助言と恵まれた家が、アダムスの日本での出世を後押ししたことは間違いないでしょう。

その功績が認められ、1610年、アダムスは旗本となりました。これによって、250石の石高と家来を養う領地が、現在の横須賀の逸見に与えられたのです。徳川将軍に仕えた見返りは、追って通知があるまで出国禁止というものでした。アダムスは非常に貴重な存在となり、家康は彼を藩臣として手元に置くことにし、極めて稀な拝謁の権利さえ与えました。これは大変な名誉なことではありました、すべての名声と富は、実際には、綺麗に飾られた鳥かごのようなものでした。

もちろん、アダムスのイギリスでの家庭は崩壊し、二度と元に戻ることはありませんでしたが、後年最初の妻メアリーに仕送りをすることはあったようです。アダムスとお雪の間にはジョセフとスザンナの2人の子供がいましたが、貿易の関係で長く滞在した平戸でもう一人子供がいたと言われています。アダムスの死後、ジョセフはその地位を受け継ぎ、日本でのアダムス家の当主となり、父の職業名である「按針」を名乗り、地元の「三浦」を姓として定着させました。

1609年、オランダ東インド会社の使節団が来日し、日本との関係を築きました。家康は、ポルトガル人が独占していたヨーロッパからの貿易を解消することができ大喜びしました。貿易独占が解消されることを祝い、アダムスに彼らの歓迎を促すよう命じました。オランダ側はアダムスを幕府での代表にして、将軍の個人的な保護のもと、国内を自由に旅行し貿易する権利を手に入れました。アダムスと家康は、江戸に近い浦賀に拠点を置くことを強く勧めましたが、彼らはこれを断り、平戸に商館を置くことを許可しました。平戸は親徳川の領地で、東南アジアの拠点への海上アクセスに優れた戦略的な場所でした。この前代未聞の特権に感謝し、アダムスはオランダの代理人として中国の絹織物などの輸入販売を手伝うことになりました。

その後、1613年、ジョン・セーリス船長率いるイギリス東インド会社(EIC)の使節団が日本への航海に成功しました。10数年ぶりに母国語を耳にしたアダムスの喜びは想像に難くありません。アダムスを介して、日英両国の首脳は手紙や贈り物を交換しました。イングランド王ジェームズ1世(スコットランド王ジェームズ6世でもあった)には素晴らしい日本の鎧2領が贈られ、家康にはヨーロッパから門外不出の望遠鏡が贈られました。EICはオランダと同様の貿易権を与えられ、日本の最北端に存在するとされていた氷海を通り、日本とヨーロッパを結ぶ「北方航路」を開拓するための特別条項を設けられました。日英両国の長い付き合いは、幸先の良いスタートを切りました。

アダムスはEICのコンサルタントとして雇われ、セーリス船長に、アダムスの新しい領地と成長し続ける商業の中心地である江戸に近い浦賀に貿易基地を設置するよう助言しました。しかし、EICのセーリス船長は、以前のオランダ人同様、これを断り、平戸を拠点とすることを選択しました。アジアへのアクセスは良いのですが、日本の主要な市場や都市から何週間もかかるため、商売には不向きでした。

この判断の甘さが、当初からこの事業全体を失敗に向かわせたのでしょう。商業の街である大阪では上手くいっていましたが、家康の息子秀忠が外国貿易の規制を強化することを決定すると、これらの支店は閉鎖され、日本の顧客は平戸まで行ってイギリス製品を手に入れなければなリませんでした。火薬は別として、他の貿易商が扱うアジアの高級品よりも品質が悪く、日本人の好みにも合わないものばかりだったのですから、商売が思うようにいかなかったのは無理もありません。